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なおと@管理人の感じたことや、成長のためのアイディアを書き綴っていきます。
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Author:なおと
洗練されたオタクを目指す、ミドルエイジ。
持ち前の好奇心により、その知識と見識は多岐にわたる。(本人談)
RPG風に興味のある分野を紹介しよう。
【戦士属性】
自己啓発、ビジネス、経済、投資、語学、各種学術、水泳、音楽、映画
【道化師属性】
手品、ボイストレーニング、心理学、催眠術
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「ダウンロード違法化」論議について
■「ダウンロード違法化」の背景
昨今、インターネット上に流出した音楽や映像作品の著作権侵害
が問題になっている。これに対して今まではインターネット上に公
開する行為は違法とされていたが、ダウンロードする行為は違法と
されていなかった。
今回の「ダウンロード違法化」はそれが違法に公開されていたと
知りながらダウンロードする行為も違法と見なすと言う動きだ。こ
の背景にはWinnyなどによる大量の海賊版流出による音楽業界を中心
とした利益損失が大きな原動力として存在しているようだ。
因みに、「違法に公開した事を知りながら」と言う事の証明責任
は訴訟を起こす側にあるとの事です。
■法的な話を少しだけ
日本国内の話なので国内法に話を限定する。
この場合、この問題の根拠となる法律は著作権法第21条の複製
権であろう。
【著作権法】
第21条 著作者は、その著作物を複製する権利を専有する。
さらに厳密に言うと第22条の上演権及び演奏権、第23条の放
送権、有線送信権等、第26条の上映権及び頒布権等もからむと思
うが、要は全てにおいて著作物を著作者の許可なく公開するなと言
う決まりなのだ。
従って、インターネット上でも公開する行為のみを違法と見なし
て居たわけだ。
「でも、ダウンロードするって事は一種の複製だから第21条に違
反するんじゃないの?」
こう思う人も居ると思う。それに対する答えは第30条の私的使
用のための複製。個人的又は家庭内で楽しむために複製する事は、
著作権法上違法ではない。個人的には、法律の抜け穴的なこじつけ
だと思うのだが・・・。
■自分自身の首を絞めた匿名文化
ところが、Winny等のファイル共有ソフトの台頭によって、著作物
を違法に公開する事を抑止する事がほぼ不可能な状態になってきた。
誰が公開したかが分からないし、一度流出すれば事実上完全に削除
する事が出来ないからだ。これでは、インターネット上に公開する
行為を取り締まる事は極めて難しい。
そうなると、著作権を保護するためにはダウンロードを規制する
以外に手段がなくなってしまう。即ち、ファイル共有ソフトの仕組
み上、違法に公開する行為を規制する事が不可能な状態では、ダウ
ンロードを規制して間接的に公開を無効化する以外に著作者の権利
を守る術は無いのである。Winnyに代表されるファイル共有ソフトの
仕組み自体が、ダウンロードを規制する法的根拠を与えているのだ。
つまり、今回の規制強化はインターネットの行き過ぎた匿名文化
が自分自身の首を絞めた結果だと考えている。自由を語りながら、
他人の権利を踏みにじったツケが今回の規制強化の本質ではないだ
ろうか?
■「ダウンロード違法化」反対論者の論理
反対論者の反論を列挙するとこんな感じだろう。
「そこまでやるのはどうか?」
「無実なのに訴えられる可能性がある」
「違法ダウンロードを利用した架空請求の可能性」
「テキスト・画像に適用が広がる可能性」
「ネットの使い方が変わってしまう」
色々読んでみたが、僕から見ると説得力を持たないものばかりだ。
「そもそも、この人達は著作権を理解しているのだろうか?」と、
大きな?マークが沢山出てきてしまう。それに論点をすり替えるの
も得意らしい。
インターネットの文化に誇りを持つのであれば、そのコンテンツ
自体も他人の権利を搾取して取り入れるのではなく、自分たちでフ
リーのコンテンツを作り上げるくらいの気構えが必要なのではない
か? ソフトウェアの世界ではそうやってフリーソフトを開発して
きたのだから。
自助努力もなしに他人の権利を蹂躙しておいて、何が文化だ。何
がWeb2.0だ。
と、これが僕の意見なのだが、反対論者の意見も読んで欲しい。
双方の意見を公平に読んで判断する事が出来るのが、インターネッ
トの素晴らしいところなのだから。
【2007/11/24 00:08】
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哲学的エッセー:論理の魔術
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貧困な言語能力と想像力が生み出すもの
久しぶりに早く帰宅したので、楽しく
「庄内拓明の知のヴァーリ
トゥード」
を読んでいた。その中で、
「「死んでも生き返る」と考
えている中学生が2割もいる」
と言うニュースがある事を知った。
因みに、きっかけとなったのは
「まったくもう、昭和なんだから!」
という記事の最後の方だ。
#庄内拓明氏の記事も私とはまた別の角度で面白い。
馬鹿じゃなかろうか?
勿論、中学生じゃなく、こんな事を問題視する大人がだ。
最近は理屈っぽい事は書かないようにしてきましたが、このあま
りにもナンセンスな記事には正直義憤を感じます。腐った教育を放っ
ておくような事はしたくありません。あまりにも記事の内容が馬鹿
過ぎます。
なので・・・久しぶりに「斬り」ます。
まず記事で問題になっている質問の一つ。
「死んでも生き返ると思うか」
この問いを世界中の大人に投げかけたら、半分以上の人がそう思
うと答えてもおかしくない。輪廻即ち生まれ変わりの思想はかなり
広く信じられていますし、輪廻が存在しない事を証明する事は論理
的に不可能です。勿論、輪廻が存在しない事を証明する事が出来な
い事は輪廻が存在する事を意味しません。
そう言う意味じゃないのなら、それなりの注釈をつけるべきだし、
「死んだ場合、死んだ時点に持っていた肉体が賦活・再生し、死ん
だ時点の年齢と記憶を持った状態で生き返ることが可能と思うか?」
位の文章にして欲しい。勿論、この文章は最低限の文章であって、
これでも説明不足なくらいだ。
また、死の直後に人間の肉体を冷凍保存している人も存在する。
死んだ直後の状態の遺体を冷凍保存すれば、技術が進んだ未来で生
き返る事を期待してだ。
生理学的に考えれば、細胞の壊死を起こさないように保存して、
解凍する時に細胞を破壊せず、解凍した時点で神経細胞の電気信号
の伝達と細胞の運動及び再生活動を活発化させる技術があれば、生
き返りは可能と考えてもおかしくはないはず。
ただ、生物学的名生き返りと、人間としての生き返りを同列に見
なす事が出来るとは私自身は思いませんが・・・。
また、クローン羊ではなくクローン人間を作ってしまったら、そ
れは生き返りと呼べなくはないですよね。全く同じ遺伝子を持った
個体なのですから、経験と記憶を写しこむ技術が出来れば限りなく
生まれ変わりに近い個体が作れる可能性はゼロではありません。
因みに、ここに書いたような事は僕は小学生の時に考えた事だ。
今時の中学生ならもっと情報も入ってくるし、更に複雑な事を考え
てもおかしくないと思う。
更に、僕は弟を失ったけれど、僕が忘れない限り弟も生きている
と思う。だから、「死んでも生き返ると思うか」なんて訊かれたら
死んでもNoなんて答える事は出来ない。
そもそも、このアンケートを作った人は「死んでも生き返ると思
うか」と言う言葉の多義性に鈍感過ぎる。もう少し日本語を理解し
てからアンケートを作って欲しい。
更に、このアンケートを作った人自体が「死」を理解していない
んじゃないだろうか?
死って言うのは「脳や心臓が動かなくなったのでおしまいです」
みたいな単純なものじゃない。もっとダイナミックで神秘的で尊厳
に溢れたものだ。
また「あなたは自分がいつか死ぬと思いますか」と言うのも困っ
た問いだ。ちょっと違う角度から斬ってみよう。
二つの問いを考えます。
「あなたは自分がいつか死ぬと思いますか」
と
「あなたは自分が永遠には生きないと思いますか」
一見、論理的に等価に見える二つの問いですが、そうではあり
ません。なぜなら、「思う」と言う主観を表す言葉が入っている
からです。
主観だから「いつか死ぬとは思わないけど、永遠に生きるとも
思わない」と言う回答が可能です。論理的じゃないかもしれない
けれど、どう思おうが本人の自由な訳です。論理的である必要は
ない。それが主観の世界です。
実際、僕が答えるとしたら・・・
「あなたはいつか死にますか」と訊かれたら「はい」
「あなたは自分がいつか死ぬと思いますか」と訊かれたら「いいえ」
と答えるかもしれません。
事実としてはいつかは死にますが「いつか死ぬ」と思って生活
している訳ではないからです。
会話ではこのあたりのニュアンスを伝えられるので、状況は変
わりますが、アンケートで二者択一を迫られたらこう答えざるを
得ないかもです。
キリが無いので、この辺でまとめましょう。
教育問題で良く引き合いに出される有名な話。
「雪が解けたらどうなるでしょう?」答えは水ですが、一人の生
徒の答えは「春になる」。
素敵ですよね。
この話が少しでも素敵だと思うのなら、「正解」からずれた子を
鬼の首を取ったかの如く裁くのがおかしいと感じて欲しいのです。
裁く前に理解しようとしてみましょうよ。
統計的な処理とかする前にやる事があるはずです。
理由を分析する前に、理由を訊けば良いじゃないですか?
相手はモノじゃなくて、人間なのだから・・・。
テーマ:
子供の教育
- ジャンル:
学校・教育
【2007/11/02 00:33】
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哲学的エッセー:論理の魔術
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なぜ人を殺してはいけないのか?〜論理の限界を把握せよ!
この問いは生まれつき哲学的センスを持った人間にとっては避けて通れない問いではなかろうか?
また、この問いに自力でたどり着いた人は、おそらく自分なりの結論にも既にたどり着いていると思う。
結論から言うと、全ての人を納得させる結論は存在しない。
これは構造的に仕方の無い事だ。
例えば、「なぜ学校に行かなければ行けないのか?」と言う問いを考えて見て欲しい。
この問いに対しては、現在の社会システムで学校に行かなかった場合のデメリットと逆に学校に言った場合のメリットをベースにすればそれなりの答えが出てくる。
が、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言う問いに対しては、同じ方法で答えを出す事が出来ない。
何故なら「人を殺してはいけない」のが社会の前提条件だからである。
この時点で同一の社会システム内に存在する人間同士の共通認識を元に説明する事は不可能となる。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う事自体が共通認識への問題提起となってしまうからである。
この問いが哲学的問いとされる所以である。
まず、純論理的見地から考えてみよう。
ここでは、一切の感情、善悪の判断を交えず、個々の人間を個別のエンティティと見做し、人間社会をエンティティの集合体と考える。
こう考えた場合、病死も事故死も他殺も自殺も一つのエンティティの消滅に過ぎず、殺す事のみを禁止しなければならない理由は見当たらない。
仮に他殺が多少増えても他の要因による死が減ったり、エンティティの生成が増えればバランスは取れる。
つまり、エンティティの生成と消滅のバランスさえ保っていれば、エンティティの消滅が他殺だろうが事故だろうが関係ないと言う事だ。
また、均衡が崩れてエンティティが急激に減少し、その結果人間社会が崩壊したとしてもそれのどこが悪なのだろうか?
個々のエンティティの消滅を許容するのであれば、エンティティの集合全体の消滅も許容出来るのではないだろうか?
少々大雑把過ぎるだろうか?
なら、もう少々現実に近いモデルで考えて見よう。
実社会には利害関係を共にするグループがいくつも存在する。
今度のモデルではそれぞれのグループの生存競争を想定してみよう。
さて、XグループのメンバがYグループのメンバを殺した。
どうすれば良いだろうか?
無抵抗でYグループのメンバが助かる確率は低い。
無抵抗の戦略は慈悲があったり、温厚なグループには有効かもしれないが、いきなり人を殺す時点でXグループはそれらに該当しない可能性が極めて高い事が分かる。
従って、無抵抗の場合高い確率でさらなる被害を受ける事が予想できる。
こう言った場合、ゲームの理論で現在一番有効な戦略は同等の報復をする戦略である。
要は一人を殺されたら一人を殺し返すのだ。
相手がさらに仕返しをしてこない限りそれで打ち止め。
ただし、これは飽くまでも警察等の社会的な自警組織が無い場合の話である。
が、ここでのテーマは相手を殺さない戦略を取るグループは淘汰されてしまう社会(それが社会と呼べるかは疑問だが・・・恐らく近代社会とは呼べないだろう)が存在し得ると言う事だ。
他にも様々な議論は出来るだろうが、純論理的に論じる場合その指針はただ一つに集約される。
即ち、人を殺す事を容認することで人間という種の存続に悪影響は無いかを論ずる事になるのである。
が、そこに落とし穴が一つある。
そもそも種が存続する必要性を放棄してしまえば、いかなる論証も無効化されてしまうのだ。
そして、人を殺そう等と考えている人間は、高い確率で人類の行く末などどうでも良いと思っているだろう。
純論理的つまり客観的考察では結局「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言う問いに答える事は出来ない事を理解して頂けただろうか?
つまりこれが論理の限界なのだ。
逆説的だが「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言う哲学的問いには論理学をベースとする哲学は答えを与える事は出来ない。
答えを与える事が出来るのは感情や宗教をベースとした主観的説明のみであり、主観的故に絶対的な答えは無い。
例えば、一番子供だましな答えは「あなたは殺されたくないでしょう? だから他人を殺してはいけませんよ」ってのがあるが、世の中には殺されたってかまわないと思っている人間もわんさといるし、自分だけは特別だと思っている人間もわんさといる。
まあ、そんな風に思うのは異常なわけだが、異常な人間も世の中には沢山居るし、自分が常に正常だと決め付けるものおかしい。
そんな事より、人の生き死にを「自分がされたくない事は他人にしてはダメ」みたいな卑近な道徳律で説明しようとする事自体がどうかと思う。魂に響かないではないか。
人を殺してはいけないのは、それが魂の叫びだからだ。
そして、その説明は人によって違うし、一つとは限らない。
だから、それを子供に聞かれたら・・・道徳とか言う観点ではなく、自分自身の本音を聞かせて上げるべきなのだと思う。
それがあなたの魂の叫びなら、必ず相手の魂にも伝わるはずだ。
テーマ:
哲学
- ジャンル:
学問・文化・芸術
【2005/10/15 15:34】
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哲学的エッセー:論理の魔術
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閉ざされたリアリティー
近代合理主義のもっとも大きな弊害は、事実は一つと言う考え方の蔓延ではないだろうか?
私の知る限り、そのルーツはデカルトの「方法序説」に始まる。
つまり、万人にとって疑いようの無いものをよりどころとして推論を展開するやり方だ。
また、デカルトはこの中で問題を細分化して個々の問題を解決する事によって、最終的な問題解決を図るための方法論も展開している。
所謂、実証主義と還元主義だ。
それ以前にも同様の考え方は存在したかもしれないが、科学的手法として明確に定義したのはデカルトが最初ではなかろうか。
こう言った手法は科学的手法として一定の価値を持っているに過ぎない。
個々の人間の生活、特に精神的な活動において、この手法は非常に有害な結果をもたらす事が多々ある。
近現代の多くの人はリアリティー即ち事実は一つであると思い込んでいる。
これは、科学的にも論理的にも哲学的にも大きな間違いだし、デカルトの真意もそこにはない。
科学的にはハイゼンベルグの不確定性原理において、量子力学の世界で観測者の存在が観測対象に干渉を与える事が証明されている。
この事から、Aが観測した場合とBが観測した場合では異なるものが観測される可能性が示唆される。
量子力学なぞと言うミクロ的学問の成果を現実生活に適用するのは馬鹿げていると考える人は、特定の時点における微細な変化が時間がたつにつれ大きな変化をもたらすと主張する、カオス理論におけるバタフライイフェクトを過小評価しているのではなかろうか?
また、精神的にも同様の作用がある事を我々は経験上知っている。
神と言う観測者が自分と言う観測対象を観測していると信じている人間の精神と行動は明らかに変化する。
論理的な話に移ろう。
ゲーデルの不完全性定理において、ある特定の論理体系において論理体系内の全てを証明する事は出来ないと言う事が証明されている。
つまり、その論理体系の中では「ただ信じるしかない」モノが必ず存在すると言うことだ。
言い換えれば、信じるモノによって異なる体系が同時に成立し得るという事。
さて、最後に哲学的な話。
恐らくこのテーマではフッサールの現象学が分かり易いであろう。
単純に言えばあなたがこのページを閲覧するのに使っているPC。
PCと言うのはこの世に存在しない。
あなたが作り上げた概念。
もっと言うと、社会全体で共有している共通概念である。
あなたの目の前にあるのは、キーボードやマウスと呼ばれる機器を動かす事により、その動作に対する反応がディスプレイと呼ばれる光点の集合体を表示するモノに定められた手続きにより表示される物体に過ぎない。
ディスプレイが飾りだと思えば、これはちゃぶ台かもしれない。
漬物石かもしれない。
はたまた恋人かもしれないのだ!
要はリアリティーは一つではないと言う事だ。
神を信じる人にとっては神は存在するし、神を信じない人にとっては神は存在しないと言うのが端的な例であろう。
妖精だって、妖怪だって、愛でさえそうなのだ。
そして、個々人の感じるリアリティーはそれぞれの精神に大きな影響を及ぼし、個々人の精神を通して現実世界に影響を与えていく。
多様なリアリティーは言わば精神的な栄養であり、精神こそが現実を変えていく原動力なのである。
信じるモノが無くなると人の心は殺伐とする。
デカルトはそういった風潮に危機感を持って「方法序説」で神の存在証明を行った。
現代論理学の水準からすると、その論理は破綻している。
しかし、ふと思う時がある。
デカルトはもしかして破綻を承知で神の存在証明をしたのではなかろうか?
詭弁を弄してでも、皆が何かを信じる事で豊かな社会になる事を願っての事ではないだろうか?
それがデカルトの愛なのかもしれない。
テーマ:
哲学
- ジャンル:
学問・文化・芸術
【2005/09/19 09:03】
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哲学的エッセー:論理の魔術
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言葉の性質とその限界
言葉と言うのは、その長さと限定範囲が反比例します。
短い言葉程広い限定範囲を持つ。
例えば「ハゲ頭」と言う言葉はあらゆるハゲている人の頭に適用されますが、「タケダ君のハゲ頭」は世界中いや全宇宙に存在するハゲ頭を持つ人のうち、タケダ君と呼ばれる人にしか適用されません。
つまり、より厳密に言うのであれば、言葉は意味を持つと言うよりは限定範囲を狭めるものです。
ただし、当然例外はあります。
古典論理学で言うところの論理和の概念です。
例を挙げます。
・その猫は黒だ
・その猫は黒か白だ
言葉は増えていますが、限定範囲は広がっています。
このようにして、言葉という彫刻刀で限定により意味を狭めつつ、時折削り過ぎないように限定範囲を広めながら自分の言いたいことを相手に伝えると言うのが言語的情報伝達の本質です。
つまり、彫刻の材料になる日常的な理解しあっている共通認識があって、初めて成り立つのが言語的コミュニケーションです。
そして、この言葉の彫刻の上手い人達の代表が文豪でしょう。
ところがこの言葉の性質が言葉の限界でもあります。
共通認識を元に意味を限定していく事によるコミュニケーションは、裏を返すと次のような限界を持ちます。
「共通認識に存在しない概念で、共通認識内の概念に類似のものが存在しないものは伝えられない」
例えば、ユダヤ教やキリスト教における神の概念。
唯一絶対の神というものを説明しろと言われても、純粋に言葉だけで論理的に説明する事は出来ない。
どこかに「信じる」と言う行為が必要とされるはずです。
確かにデカルトは「方法序説」で神の存在証明をしてみせました。
有名な「我惟う、ゆえに我あり(cogito, ergo sum.)」から始まる神の存在証明です。
ただ、これにしても神が存在しないと矛盾が生ずると言うやり方、つまりは背理法で間接的に証明したにすぎず、またその内容も現代の学問水準からすると無理やりな証明です。
そして、言葉の限界は我々の理解の限界をも示唆します。
我々は一部の例外を除き物事を言葉によって理解します。
つまり、言葉で表現出来ない事があると言う事は、我々には理解出来ない事があると言う事を示唆します。
我々には理解し得ない事が確かに存在する事を認める謙虚な心が必要ではないでしょうか?
逆説的ですが、その謙虚な心が未知への探求のための更なるエネルギーを与えてくれるかもしれません。
【2005/04/23 13:58】
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