日常を飛び越えろ
なおと@管理人の感じたことや、成長のためのアイディアを書き綴っていきます。
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  • 洗練されたオタクを目指す、ミドルエイジ。
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閉ざされたリアリティー
近代合理主義のもっとも大きな弊害は、事実は一つと言う考え方の蔓延ではないだろうか?
私の知る限り、そのルーツはデカルトの「方法序説」に始まる。
つまり、万人にとって疑いようの無いものをよりどころとして推論を展開するやり方だ。
また、デカルトはこの中で問題を細分化して個々の問題を解決する事によって、最終的な問題解決を図るための方法論も展開している。
所謂、実証主義と還元主義だ。
それ以前にも同様の考え方は存在したかもしれないが、科学的手法として明確に定義したのはデカルトが最初ではなかろうか。

こう言った手法は科学的手法として一定の価値を持っているに過ぎない。
個々の人間の生活、特に精神的な活動において、この手法は非常に有害な結果をもたらす事が多々ある。
近現代の多くの人はリアリティー即ち事実は一つであると思い込んでいる。
これは、科学的にも論理的にも哲学的にも大きな間違いだし、デカルトの真意もそこにはない。

科学的にはハイゼンベルグの不確定性原理において、量子力学の世界で観測者の存在が観測対象に干渉を与える事が証明されている。
この事から、Aが観測した場合とBが観測した場合では異なるものが観測される可能性が示唆される。
量子力学なぞと言うミクロ的学問の成果を現実生活に適用するのは馬鹿げていると考える人は、特定の時点における微細な変化が時間がたつにつれ大きな変化をもたらすと主張する、カオス理論におけるバタフライイフェクトを過小評価しているのではなかろうか?
また、精神的にも同様の作用がある事を我々は経験上知っている。
神と言う観測者が自分と言う観測対象を観測していると信じている人間の精神と行動は明らかに変化する。

論理的な話に移ろう。
ゲーデルの不完全性定理において、ある特定の論理体系において論理体系内の全てを証明する事は出来ないと言う事が証明されている。
つまり、その論理体系の中では「ただ信じるしかない」モノが必ず存在すると言うことだ。
言い換えれば、信じるモノによって異なる体系が同時に成立し得るという事。

さて、最後に哲学的な話。
恐らくこのテーマではフッサールの現象学が分かり易いであろう。
単純に言えばあなたがこのページを閲覧するのに使っているPC。
PCと言うのはこの世に存在しない。
あなたが作り上げた概念。
もっと言うと、社会全体で共有している共通概念である。
あなたの目の前にあるのは、キーボードやマウスと呼ばれる機器を動かす事により、その動作に対する反応がディスプレイと呼ばれる光点の集合体を表示するモノに定められた手続きにより表示される物体に過ぎない。
ディスプレイが飾りだと思えば、これはちゃぶ台かもしれない。
漬物石かもしれない。
はたまた恋人かもしれないのだ!

要はリアリティーは一つではないと言う事だ。
神を信じる人にとっては神は存在するし、神を信じない人にとっては神は存在しないと言うのが端的な例であろう。
妖精だって、妖怪だって、愛でさえそうなのだ。
そして、個々人の感じるリアリティーはそれぞれの精神に大きな影響を及ぼし、個々人の精神を通して現実世界に影響を与えていく。
多様なリアリティーは言わば精神的な栄養であり、精神こそが現実を変えていく原動力なのである。
信じるモノが無くなると人の心は殺伐とする。
デカルトはそういった風潮に危機感を持って「方法序説」で神の存在証明を行った。
現代論理学の水準からすると、その論理は破綻している。
しかし、ふと思う時がある。
デカルトはもしかして破綻を承知で神の存在証明をしたのではなかろうか?
詭弁を弄してでも、皆が何かを信じる事で豊かな社会になる事を願っての事ではないだろうか?
それがデカルトの愛なのかもしれない。

テーマ:哲学 - ジャンル:学問・文化・芸術


多様性の破壊
明正堂をご存知だろうか?
上野の駅ビルにある売り場面積の割になかなか人気の書店である。
なんとなく掘り出し物に出会えるような気がして、久しぶりにふらっと立ち寄ってみた。
平日の午後だと言うのに、それなりに人は多い。

実は前の日にある試験に受かったのだ。
そんな訳で、緊張の糸がぷっつりと途切れた状態でぶらぶらと本を物色。
そんな時、ピンクの表紙の文庫本が目に留まった。
題名は「トランス・トランス・フォーエバー」。
なんとなく最近の若い女性作家に有り勝ちなタイトルではある。
表紙と同様にピンク色をした腰帯にはこう書いてある。

「櫻井まゆ18歳、早すぎる遺稿」

どうやら、そういう事らしい・・・。
自ら命を絶った少女の遺稿。
文章力と言うより表現力に並外れた才能を感じる。
最近流行の女の子の等身大風の口語的表現で書かれた文章。
これって、実は諸刃の剣なのだ。
感性の鋭さが無いと、ただのバカっぽい文章に成り下がってしまう。
感性の鋭さって言うのは、要は鋭い観察力なのだ。
他人が気付かないモノに気付く力。
他人に見えないモノが見える力。
いや、逆かもしれない。
他人に見えないモノが見えてしまう。
だから、それを文学や芸術の表現として昇華したいと言う欲求が生まれるのではないだろうか?

それが霊的なものであれ、直感的なものであれ、論理的なものであれ、他人に分からないモノやコトが分かってしまうのは慣れるまでは苦しみ以外の何物でもない。
こちらにとっては自明な事を分からない人に対していちいち言葉で説明しなければならない。
挙句の果てに「理解できない」だの「気のせい」だの「考え過ぎ」だのと言ったあまり意味の無い答えが返って来るのが関の山。
たまに理解を示してもらえても、きちんと理解されていない場合が殆どだ。

この本の著者、櫻井まゆもそんな苦痛を感じながら生きてきたのではないだろうか?
実際のところは分からないが、それ程的外れでもないと思う。
勿論、ここで言っているのは霊的な話ではなく、洞察力や観察力と言った世間一般でそれ程非常識とは考えられていない知覚についてである。

感性の鋭い人間が真っ先に気付くのは、教育と呼ばれるシステムの偽善性である。
あの義務教育という奴は学問が好きな人間にとっても嫌いな人間にとっても苦痛以外のなにものでもない。
毎年毎年同じような事を繰り返し勉強させられ、学問や論理の高みなんぞ突っ込んでも教えて貰えない。
低レベルな事を教えている割にはついて来れない奴を平気で切り捨てる。
乱暴に言うとそこそこのバカ製造工場でしかない。
そこでは、バカじゃない人間と極端にバカな人間は注意深く排除される。
上手く知識を習得出来ない人間は取り残される。
感受性の強い人間は抑えつけられ、翼をもがれる。

「みんな素直に!」
「嘘をつくのは悪い事!」
「困っている人を助けてあげよう!」

こんな事を信じろってんだから、バカになれと言っているようなもんだ。
素直ってなんだ?
言葉になった時点でそこには真実と嘘が入り混じっている。
状況しだいで同じ言葉が真実にもなり嘘にもなる。
嘘をつかないようにするには黙っているしかない。
困っている人ってどんな人だ?
ついさっき人を殺してしまった人もきっと困っているだろう。
死体を隠すのを助けてあげようってのか?

こういうと決まって「考え過ぎ」だのなんだのと言う逃げの言葉で切り捨てられる。
そんな鈍感な人間が教師面なんぞしている現実。
鈍感な人間にとってみれば難癖を付けているようにしか感じられないのだろう。
しかし、ある種の人間にとってはこんな上に書いたような疑問は、考えるまでも無く反射的に出てくる自明の疑問。
「深く」考えるなと言われても、「深く」考えたつもりはないのだからどうすれば良いのか分からない。
鈍感な人種との亀裂。

感性の鋭い人間にとっては思春期は危険だ。
有り余るエネルギーと理解してもらえない悩み。
そして社会の残酷さを個人的な経験として知ってしまう鋭さ。
莫大なエネルギーが死の方向を向いて流れ出すのにこれ程都合のいい条件は無いだろう。

お遊び程度の鈍い感性は認めても、多様性の根っことなる鋭い感性を拒否する社会。
櫻井まゆはその社会の犠牲者と言う考え方もあるかもしれない。
しかし、それこそ鈍感な感性の人間が考えそうな事。
彼女の選択は彼女の選択。
そこに犠牲も糞も無い。
大事なのは我々がそこから何を感じるかなのだ。
分かるはずだ。
彼女は犠牲者でも弱者でもない。
哀れむ必要などさらさらないし、本人もそれを望んでいないだろう。
俺はただそう感じる。

テーマ:エッセー - ジャンル:小説・文学