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こころのスキマは埋められない |
こころのスキマは埋められない。 だって、スキマなんて本当は無いんだもの。 乾燥肌みたいなものかなあ。 栄養が行き渡らないだけなんだ。
じゃあ、こころの栄養ってなんだろう? それはあなた自身の優しさ。 他人の優しさじゃダメダメ。 栄養は内側から。 仲間と居ると楽しいのは、あなた自身が優しくなれるから。 恋人と一緒だと幸せなのは、あなた自身が優しくなれるから。 あなた自身が優しくなれない時、こころにスキマを感じるんだ。 乾燥肌になっちゃうんだ。
でも・・・優し過ぎると悲しみも増えるみたいだね。 それでも、こころが干からびるより千倍ましさ。 そんな時は思いっきり泣いて良いんだよ。 思いっきり泣いて泣いて泣いて・・・そして泣き終った時、 君はもっともっと優しくなっている。 きっと。
テーマ:詩 - ジャンル:小説・文学
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なぜ人を殺してはいけないのか?〜論理の限界を把握せよ! |
この問いは生まれつき哲学的センスを持った人間にとっては避けて通れない問いではなかろうか? また、この問いに自力でたどり着いた人は、おそらく自分なりの結論にも既にたどり着いていると思う。
結論から言うと、全ての人を納得させる結論は存在しない。 これは構造的に仕方の無い事だ。 例えば、「なぜ学校に行かなければ行けないのか?」と言う問いを考えて見て欲しい。 この問いに対しては、現在の社会システムで学校に行かなかった場合のデメリットと逆に学校に言った場合のメリットをベースにすればそれなりの答えが出てくる。 が、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言う問いに対しては、同じ方法で答えを出す事が出来ない。 何故なら「人を殺してはいけない」のが社会の前提条件だからである。 この時点で同一の社会システム内に存在する人間同士の共通認識を元に説明する事は不可能となる。 「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う事自体が共通認識への問題提起となってしまうからである。 この問いが哲学的問いとされる所以である。
まず、純論理的見地から考えてみよう。 ここでは、一切の感情、善悪の判断を交えず、個々の人間を個別のエンティティと見做し、人間社会をエンティティの集合体と考える。 こう考えた場合、病死も事故死も他殺も自殺も一つのエンティティの消滅に過ぎず、殺す事のみを禁止しなければならない理由は見当たらない。 仮に他殺が多少増えても他の要因による死が減ったり、エンティティの生成が増えればバランスは取れる。 つまり、エンティティの生成と消滅のバランスさえ保っていれば、エンティティの消滅が他殺だろうが事故だろうが関係ないと言う事だ。 また、均衡が崩れてエンティティが急激に減少し、その結果人間社会が崩壊したとしてもそれのどこが悪なのだろうか? 個々のエンティティの消滅を許容するのであれば、エンティティの集合全体の消滅も許容出来るのではないだろうか?
少々大雑把過ぎるだろうか? なら、もう少々現実に近いモデルで考えて見よう。 実社会には利害関係を共にするグループがいくつも存在する。 今度のモデルではそれぞれのグループの生存競争を想定してみよう。 さて、XグループのメンバがYグループのメンバを殺した。 どうすれば良いだろうか? 無抵抗でYグループのメンバが助かる確率は低い。 無抵抗の戦略は慈悲があったり、温厚なグループには有効かもしれないが、いきなり人を殺す時点でXグループはそれらに該当しない可能性が極めて高い事が分かる。 従って、無抵抗の場合高い確率でさらなる被害を受ける事が予想できる。 こう言った場合、ゲームの理論で現在一番有効な戦略は同等の報復をする戦略である。 要は一人を殺されたら一人を殺し返すのだ。 相手がさらに仕返しをしてこない限りそれで打ち止め。 ただし、これは飽くまでも警察等の社会的な自警組織が無い場合の話である。 が、ここでのテーマは相手を殺さない戦略を取るグループは淘汰されてしまう社会(それが社会と呼べるかは疑問だが・・・恐らく近代社会とは呼べないだろう)が存在し得ると言う事だ。
他にも様々な議論は出来るだろうが、純論理的に論じる場合その指針はただ一つに集約される。 即ち、人を殺す事を容認することで人間という種の存続に悪影響は無いかを論ずる事になるのである。 が、そこに落とし穴が一つある。 そもそも種が存続する必要性を放棄してしまえば、いかなる論証も無効化されてしまうのだ。 そして、人を殺そう等と考えている人間は、高い確率で人類の行く末などどうでも良いと思っているだろう。
純論理的つまり客観的考察では結局「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言う問いに答える事は出来ない事を理解して頂けただろうか? つまりこれが論理の限界なのだ。 逆説的だが「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言う哲学的問いには論理学をベースとする哲学は答えを与える事は出来ない。 答えを与える事が出来るのは感情や宗教をベースとした主観的説明のみであり、主観的故に絶対的な答えは無い。
例えば、一番子供だましな答えは「あなたは殺されたくないでしょう? だから他人を殺してはいけませんよ」ってのがあるが、世の中には殺されたってかまわないと思っている人間もわんさといるし、自分だけは特別だと思っている人間もわんさといる。 まあ、そんな風に思うのは異常なわけだが、異常な人間も世の中には沢山居るし、自分が常に正常だと決め付けるものおかしい。 そんな事より、人の生き死にを「自分がされたくない事は他人にしてはダメ」みたいな卑近な道徳律で説明しようとする事自体がどうかと思う。魂に響かないではないか。
人を殺してはいけないのは、それが魂の叫びだからだ。 そして、その説明は人によって違うし、一つとは限らない。 だから、それを子供に聞かれたら・・・道徳とか言う観点ではなく、自分自身の本音を聞かせて上げるべきなのだと思う。 それがあなたの魂の叫びなら、必ず相手の魂にも伝わるはずだ。
テーマ:哲学 - ジャンル:学問・文化・芸術
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爆弾フリーク〜プロとの違いを自覚すべし |
私は根っからの本好きである。 が、アングラ系に限らず探している本が絶版になっている事が結構多い。 特に西洋の純文学でメインストリームからちょっと外れてしまう感じの本など簡単に絶版になってしまう。 まあ、そんな事情からアングラ系でなかなか手に入らない書籍を探すのにも、あまり苦痛を感じないのである。
で、最近興味を感じているのが所謂爆弾系の書籍。 学術系から実践系まで幅広く読んでみたい。 当然、単なる情報としての興味である。 或いは、趣味でたまに書く小説のネタにしたいと言う下心も多分にあります。 が、この系統の情報を調べていると、当然の事ながら火遊び好きの爆弾フリークみたいのがいます。 こんな事を書くと危険かもしれないけど、私はこう言った輩がとてつもなく嫌いですね。 理由は、プロ根性のかけらもないから。 全く腹が立って仕方がない。
はじめにはっきりさせておきますが、私は爆弾とか戦闘とかに関しては全くの素人です。従って、これから書く事には間違いがあるかも知れません。 しかしながら、プロのモノの考え方と言う観点からはそう外れていないはずだと考えております。
プロと違って爆弾フリークの興味は威力のある爆発物を作る事にあるように思われます。 プロにとっての興味は性能の良い爆弾を作りそして効果的に使う事。
性能の良い爆弾=威力のある爆発物ではない!
爆弾の使われる現場は3つある。 工事/解体、映画・イベントそして戦闘。 爆弾フリークの頭の中には恐らく最後の現場しかないのであろうから、戦闘の場面を念頭に置いて考えよう。 実は、爆弾フリークの作った爆弾が一番向かないのがこの戦闘のシーンでの使用であろう。
1.戦闘のシーンでは劣悪な状況でも爆発してはいけない時には絶対に爆発しない仕組みが必要となる。
当たり前だ、ショックやちょっとした熱を受けて一々爆発するような手榴弾なんぞ実戦では使えない。 また、極秘の作戦中にこんな誤爆が起きたら、作戦の進行が明るみになり、共同で作戦遂行に当っている他の部隊にまで危険が及ぶ。
2.戦闘のシーンでは劣悪な状況でも爆発しなければいけない時には絶対に爆発する仕組みが必要となる。
これも当たり前。 場合によっては、豪雨の中だろうが水中だろうが絶対に爆発しなければならない。 爆発が不安定であれば、その爆弾を作戦行動の重要な要素として組み込む事は難しくなる。
3.爆弾のプロとしての作成立案のためのスキル
当然の事ながら建築工学、物性物理、地層や地盤、電子制御他様々なスキルが必要となる。 初歩的な事を言えば、リモコン式の爆弾を仕掛けたが電波が届かなかった等お粗末極まりない。 爆発物をどこにどう仕掛け、どのようなアクションをとれば、どの様な効果が得られるかを正確に予測し、その効果を作戦行動中にどの様に組み込むのがベストかを立案出来るのがプロである。 立案した方式によって、準備する爆弾やその扱いも変わるはずである。
如何だろうか? 要はどんな職業であろうと、プロフェッショナルの仕事とはどんな状況下でも一定の成果を生み出すものだと言う事である。 そこまでの矜持や向上心も持てない人間が低レベルの爆弾を作って「自分は凄いんだぞ!」なんぞとこれまた低レベルの自己過信に陥るのはまさにキチガイに刃物。 自分が死ぬのは自由かもしれんが、他人を巻き添えにはしないで欲しい。
遊びは飽くまで遊び。 遊びなんだから、それによってあなたの重要性は全く変わりませんぜ。 そして、遊びにはルールが付き物。 法律って言うルールも知っておこう。
テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル
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